初めての七尾 上杉謙信の軌跡をたどり思うこと

北陸本線は先日米原、敦賀経由で舞鶴に行って以来だったが、今回は敦賀から逆方向に向かう初めてのルートで金沢と七尾に向かう。

まず、今日の最大の関心事は昨日まで予想されていた北陸地方の局地的な大雨だったが、一夜明けた今日の予報ではそこまで深刻的な雨はなさそうになっていたので一安心で来た。

金沢では往復10キロちょっとバイクに乗る必要があったのだ。敦賀から福井行の電車に乗り、福井駅では改札を出ることなくホームで乗り換えの時間を待った。

車窓から見る限り特段風景に変わったものを見るわけでもなく、北陸で名の通っている地名の場所を通過しているのだなあと思う程度だった。基本的に地方都市なら田園風景が広がる景色があり、家々も特段変わらず同じだ。基本的にどこも似たり寄ったりだと思う。途中で見る民家の屋根瓦の色が茶色の家がそれなりに多いことが私が住む東海地方や自分が知っている他の地域とは異なる点かなあと感じた程度だ。車窓からの景色はそんなものだった。

2日連続でまともに寝ていないので何度もうとうとするのだったが、目に入る景色も車内の様子も大した変わり映えは無いように思えた。

終点の金沢には予定通り到着し、何とか持ちこたえた天気の中10kmほどのライドも無事できて用事を済ませることができた。金沢駅前に降りたのは初めてで、思ったより大きな都市だと感じた。兼六園方向に進むとさすがに観光地だけのことはあり、8月ということもあり、観光客でそれなりの賑わっているようだ。金沢駅から兼六園までの賑わいが金沢と言う街をひときわ大きく感じさせているのかもしれなかった。

金沢駅の出発は予定より1時間遅れてしまったが、何とか七尾に向かって最後の用事を済ます時間が確保できたので予定通り七尾へ向かった。

金沢からIRいしかわ鉄道というJRではない鉄道に3区間ほど乗るが、そこで下車しない限り青春18きっぷは有効だ。七尾までの途中の主だった町は羽咋市くらいだが、駅を通過するだけでは特段主要都市のような雰囲気はない。

七尾駅に着いた時にはあいにくの雨になってしまったがここでは、往復3km程度のライドだったので多少の雨は問題なかった。

無事に用事が済み、その日のうちに帰宅するために乗らなければならない最終便に間に合った。

とりあえず、あとは間違えずに乗り換えをして進むこと、さらに、悪天候によるダイヤの乱れがないことを祈るのみだ。

上杉謙信軍と織田信長軍が激突した手取川の戦いの地

今回の青春18きっぷによる七尾行で一つだけ楽しみもあった。それは、私が好きな戦国武将である上杉謙信の足跡を少し辿ることができることだった。

全く、謙信ゆかりの地を訪れる時間などない旅ではあったが、普通列車に乗って晩年の謙信の軍事行動の地を進むことができたことはそれなりに良い体験だった。

たかだか、鉄道で移動しただけだが、北陸の地形を感じ取ることで、当時の上杉軍の進路がどのようなものであったか伝わって来た。

西から陸路を七尾に来たことで、まず、敦賀から七尾を結ぶルートが比較的広い平野としてつながっていることが実感できた。西から平地を直線的に移動すると自然に七尾に到達するのだ。

あいにくの雨だったが、川が七尾湾にそそいでいる場所の風景。七尾駅から800mほどのところ。

そして、七尾で日本海に面する七尾湾に出る。ここで私が最も実感できたことは、謙信が西へ大軍へ進軍させるために重要な食糧輸送路の拠点としての七尾だ。

ただ単に地図上で見るとなぜ七尾経由なのかその利点があまり伝わってこない。しかし、今回平地を鉄道で七尾駅まで来て、海に面した七尾湾を目の当たりにすると、その重要さがすぐに分かった。越後から海上輸送で食料等の軍需物資を七尾まで大量に輸送できるのだ。陸揚げされた軍需物資は七尾線の平地がちなルートをであれば輸送しやすいだろうし、途中かほく市辺りから再度船積みして日本海に沿って敦賀方面に輸送することも可能だっただろう。

謙信が上洛して信長と戦うために七尾が重要な拠点であったことが良く分かってくるのだ。そして、信長からすれば、何としても七尾を謙信の支配下にさせてはならないという思いがあったこともうなずける

西から金沢へ向かう時に、小松を過ぎたあたりで渡ったのが手取川だった。また、松任駅と言う駅もあった。

手取川は1577年謙信率いる上杉軍と織田軍が唯一激突した出来事として、手取川の戦いで知られている。

七尾から南下した上杉謙信が入城したのが手取川の手前約8kmほどに位置する松任城だ。

合戦の背景を説明すると、親信長派である能登の畠山氏が居城である七尾城に立てこもり謙信率いる上杉軍と戦っていた。そして、七尾城から救援要請を受けて信長が上杉謙信との対決を決意して北陸へ進軍したことがきっかけとなる。

もちろん救援要請などなくとも、天下統一を目指す信長にとっては、能登を謙信の支配下にさせてはならないと言う思いからの軍事行動だった。柴田勝家をはじめ織田軍のそうそうたる武将が4万の軍勢を編成して北上し、信長もその後第2軍として向かった。

七尾城に加勢する形で謙信と対峙することで有利な形成をもくろんでいた信長だったが、早々に七尾城は謙信の手に落ちてしまう。その上、一向宗徒の抵抗にあい越前から加賀にかけて遅々とした進軍を余儀なくされる。また、謙信による徹底的な情報封鎖がしかれていたため、七尾城の様子が伝わってこないまま、織田軍は進軍し、結果として手取川を渡ったところに陣を敷いた時に初めて七尾城陥落を知ることとなる。

手取川は七尾城まで80km以上の距離がある。電車で走ってみてわかったがなかなかの距離だった。七尾にいた上杉謙信は織田軍の動きを察知すると一気に南下を開始して加賀国の支城をいくつか落城させながら手取川手前の松任城に入る。手取川を渡ったところに着陣した柴田勝家をはじめとする織田の諸将は、既に七尾城が謙信の手に落ちていることに動揺する。それどころか目と鼻の先にある松任城に謙信率いる大軍が着陣していると言う予定外の状況に慌てすぐさま撤退を決断する。

だが、この機を見逃さなかったのが謙信の強さだった。しかも、状況は数日来続いた雨、増水している手取川を背後にした織田軍。織田軍の強みでもある鉄砲も雨で使えず、謙信率いる上杉本隊数千だけの奇襲で織田軍は水死者だけでも1000名以上出たと言われるほどの大敗北を喫してしまう。

この戦いにより信長は謙信の強さを身をもって思い知らされ、謙信がいる限り北陸侵攻は断念せざるを得なくなった。それどころか、完全に謙信との関係を修復不可能なまでになり、謙信上洛の確固たる標的となった。

今まで謙信のご機嫌を取ることに徹して謙信を敵に回さず、うまく勢力拡大して着実に力を付けてきた信長だった。2年前に長篠の戦いで大量の鉄砲を使って武田勝頼率いる武田軍に大勝利したあたりが謙信と対決する方向に舵を切ったきっかけだった。

それなりに自信があっただけに謙信に大敗した信長は完全に方向転換せざるを得ない事態となったのだ。

結局信長は謙信の怒りを鎮めるすべもなく、翌年3月謙信は春日山に6万の兵を動員して遠征を計画する。この遠征の目的が関東の北条氏との対決なのか西へ向かい信長との対決なのか分かっていないのだが、いずれにしても最終的には信長と対決するつもりであったことは確かだ。

歴史のやるせなさと言うのはつきもので、謙信はこの遠征の数日前に春日山城で倒れたままこの世を去ってしまう。

私は謙信があと数年寿命があり、信長と対決することができたのであれば、信長を岐阜城に追い詰めていたと思う。

ただ、そのためには一つだけ条件がある。それは関東に一大勢力を持つ北条氏を抑え込む必要があったことだ。北条氏を降伏させるくらいのことまでできなければ、越後を空けて大遠征をして信長と対決することはできなかったはずだ。

だからこそ、死の直前に大号令をかけて6万の軍勢を向けた先は関東の北条氏に対してだっただろうと私は思う。6万と言うから、今度こそは北条を滅亡に追い込む覚悟で出陣を決意していたのではないだろうかと思う。

もし北条の脅威が無かったのなら、謙信は手取川の戦いのときに、織田軍を追って手取川以南にも進軍して、加賀国全体を勢力下におくまでにしていたと思う。それが出来ずに、手取川合戦の大勝利直後に春日山に引き返したのは北条の軍事行動を警戒していたからだ。後顧の憂いを取り除いた上で上洛途上に信長と対決するという青写真があったのだろう。

では、謙信が健在で北条氏政率いる北条勢と戦っていたらどうだったかと言えば、これはなかなか大変だったと思う。本拠地である小田原城を落城させるまでに至らなければならないので一筋縄ではいかないことだったと思う。ただ、手取川で織田軍を一蹴して、武田氏の勢力も衰えているパワーバランスの中では、北条氏に全力投球できる絶好の機会だったことは確かだと思う。武田信玄が健在の時には、謙信が関東に出兵して北条と戦えば常に背後に信濃の武田軍の動きや越中の一向宗の動きを気にしなければならなかった。その心配が全くないと言う意味ではまさに北条氏を攻める絶好の機会だっただろう。

この観点からも手取川の勝利翌年の6万の大動員の目的は北条氏をせん滅させることだったと考えるのが自然だと思う。

手取川の合戦後の謙信は、信長を倒すことより、北条氏を倒すことの方が難しいと思ったかもしれない。その北条氏を滅亡に追いやることが出きれば、織田信長を倒すことはそれほど難しくはない、しかし、北条氏を倒すことが出来なければ信長を倒すことはできないくらいに思ったかもしれない。

北条氏を降伏あるいは滅亡させることができて、関東一帯を支配下に置くことができれば、謙信の上洛体制は盤石に近くなっただろう。

上杉謙信が上洛途上で織田信長と対決していたら

もし仮に北条氏を降伏あるいは滅亡させることができていれば、謙信は上洛のために信長との対決を確実にしていたはずだ。

その際にどういう行動をとったかということを信長との対決まで勝手に想像を巡らせてみる。

まず、謙信は関東一帯を手中に収めることになるわけで、北条が支配していた相模を中心とする広大な領土を得ることになる。もともと、関東管領職にあるので関東を統括する役目も持っており大義名分も立つ。その上、北条氏に追われている立場の国人衆の支持を得ることで、関東は謙信の支配下として短期間にまとまったと思う。とりわけ北条に追われる立場にあった房総半島の里見氏などの信頼も得ることだろう。また、元々親交のある常陸の佐竹氏などとも協力関係にあるから、北条氏亡き後も関東の秩序は保たれると思う。

さらに、北条氏が領有していた伊豆から富士川にかけての静岡県エリアは織田信長と同盟関係にある徳川家康にも圧力をかけることになる。

さらに、敵対関係にある武田勝頼は越後、上野、相模、伊豆から上杉氏に囲まれる立場になるため完全に軍事力で上杉に全く歯が立たなくなる。加えて、織田、徳川とは敵対関係にあるため上杉とは同盟若しくは従属関係になるしか生きるすべがなくなる。

よって、武田勝頼は上杉謙信と少なくとも同盟関係になるはずだ。

手取川の戦い以前に上杉謙信は都を追われた足利義昭の要請により信長包囲網の中核となる。大阪の本願寺と西国10カ国を支配する毛利氏と北陸の上杉謙信からなる形だったが、関東を手中に収めたことにより、関東の勢力と武田氏も信長包囲網に新たに加わることとなるのだ。

盤石な体制を持って謙信は春日山から北陸経由で手取川を越えてその先にいよいよ進軍すると思う。

関東勢全て北陸経由で上洛作戦に従軍させるのは地理的に困難だろうから、相模、伊豆方面から駿河へ進軍させ武田軍の駿河衆と合流して徳川家康の浜松に圧力をかける。そのために考えられることは、北条氏から養子として迎え入れていた上杉景虎に関東管領職を譲り小田原城を本拠とする大胆な行動をするのではないかと思うのだ。もともと北条の人間である景虎であれば元北条側の国人衆の反感も抑えられ、何よりも関東管領と言う大義名分を持って関東の勢力をまとめることができるだろう。関東管領に背くということはすなわち室町幕府体制に楯突くことであって信長と同じ行動になる。関東から東海道を進む上杉の別動隊はこうして上杉景虎を盟主とした軍隊になったことだろう。

さらに、武田勝頼本隊は甲府を発ち天竜川を南下して三河へ侵攻し、長篠城奪還に挑むだろう。長篠の合戦以降大きく戦力を落とした勝頼と言えど、背後に上杉の脅威も北条の脅威もなく、東海道を進む上杉軍の協力を得られれば、勢いを全面的に徳川に向けられるはずだ。北信濃の兵力も集約できただろうから、弔い合戦の勢いで1万を超す兵力で三河に侵攻するだろう。

信長の大きな合戦では常に協力関係にあった徳川家康だが、この二つの動きにより完全に徳川家康は身動きが取れなくなるはずだ。

ただ、関東から東海道を進む上杉景虎を総大将とした推定3万前後の勢力は徳川家康と正面切って戦うことはしなかっただろうと思う。人質として苦労多き幼少期を過ごした強さと、三方原の戦いでは武田信玄に惨敗を喫した経験、その後勢力を拡大していることを考えれば、謙信は戦いを控えさせたと思う。あくまで徳川家康の動きを浜松にとどめることが目的だったと思う。

そのうえ、関東管領職とは言え、まだ経験が浅い景虎に関東の諸将が加わった軍隊である。仮に兵力で上回ったとしても、一致結束して向かってくる徳川軍に戦いを挑ませることは難しかっただろう。謙信自身もかつて関東の諸将を従えて11万の軍勢で北条氏康を小田原城に囲んだ時、全ての軍勢をまとめ切ることができなかった苦い経験もあった。さらに、謙信の狙いは関東の兵力そのものを関東から離れさせることで、関東の安定化を図った行動であるとも考えらえると思う。

その分、対徳川には武田勝頼の三河侵攻に任せていたと考えられる。

このような状況下で、上杉謙信本隊は春日山を発ち、加賀の手取川以南を一気に制圧して、越前に進行するだろう。

織田信長としては謙信との決戦が避けられないことを悟ると、謙信の進路である琵琶湖の東岸に当たる長浜辺りで謙信を防ぎとめるべく戦う準備をする。

安土城を琵琶湖のほとりに築いていたが、米原まで謙信に攻め込まれると本拠地でもある岐阜への道を謙信に与えることになるので、何としても長浜あたりで決着をつけようとするはずだ。

徳川家康の援軍を全く期待できない状況にあるので信長は一戦必勝態勢で長浜に防衛体制を敷くだろう。10万近い軍隊を編成して守り、越前から進んでくる上杉軍と対峙するはずだ。

越前は柴田勝家の本拠だが、上杉軍の兵力に一向宗の勢力や朝倉の残党の脅威もあるため、越前での本格的な衝突は避け、半ば越前は放棄する形で長浜に兵力を集約させるだろう。

おそらく春日山を発つ上杉軍は6万~7万だが、越中加賀を経て一向宗勢力や、元朝倉氏側の国人衆まで加わり10万余りの大勢力で越前を席巻するだろう。その勢いのまま長浜に進軍し織田軍約10万と対峙することになるだろう。

本来大遠征して来る上杉軍の方が長期戦に弱いはずだが、海上交通を利用した越後からの兵糧補給も万全な上、一向宗徒との全面的な協力関係にあるので長期戦で上杉軍が不利とういことは全くないだろう。

そもそも、謙信は越後産の青苧の販売で越後から越前にかけての海上交通の実権を握っている。北条氏との戦いで散々煮え湯を飲まされた冬の豪雪に阻まれることもないのだ。冬であっても上越から七尾への海上交通をフルに使えば冬場でも雪の影響は最小限に抑えられたはずだ。

逆に長期戦になった場合は西から迫る毛利軍に本格的に対応しなければならなくなるため織田軍が不利になる。さらには、三河に侵攻する武田軍の影響を美濃地方にも受けることが考えられる。

謙信は短期決戦を急ぐ必要は全くないはずだ。謙信の有利な点のもう一つは長年武田、上杉、織田の狭間で態度をその都度変えてきた飛騨国の国人衆を味方につけられるだろうことが挙げられる。実際今の状況下では飛騨国は全面的に上杉方に付くだろうから、食料補給面でも軍事面でも協力体制を得ることができる。さらには、飛騨国を通って南下すれば信長の本拠である岐阜を北から突くことができる戦略があることも長期戦になった場合の有利な点だ。

信長は短期で上杉謙信に打撃を与えられるような戦いをしなければならない状況に置かれ、長浜での必勝に掛けてくるはずだ。謙信はそのことを悟った上での戦いをするだろう。

信長は長篠の戦いよりはるかに大量の鉄砲を導入して謙信を撃退することに全てを懸けるだろう。

謙信も謙信で目の前の敵に全力投球するタイプだから飛騨国から別動隊を岐阜城に向けて進軍させたりするような戦い方は初戦ではしないだろう。

土塁や馬防柵で周到に用意された長浜の砦を破ることに全力を投じるのみだろう。

しかし、信長も手取川での経験を踏まえて謙信対策は盤石で臨むはずだ。馬防柵に加えて鉄砲を雨から守る屋根まで備えた装備くらいは準備するだろう。

信長軍の鉄砲の数は1万丁ほどになることだろう。だが、手取川とちがうのは謙信も一向宗勢力の力を借りて3000丁程の鉄砲を用意したに違いない。

謙信は野戦の強みである機動力だけでは信長に勝つことは難しいと考え、鉄砲を使った戦いをするはずだ。この辺りが信長の想定外のこととなると思う。

謙信は信長の大規模な鉄砲部隊に対して、鉄砲による攻撃を仕掛けつつ夜襲を繰り返す攻撃を散々に繰り返すだろう。

上杉軍も鉄砲に因るそれなりの損害を食らうだろうが、最終的には突破口を切り開き、一気に信長の鉄砲部隊に穴をあける攻撃を仕掛ける。一旦崩れ出した鉄砲部隊は一気に弱まり、野戦の様相を呈してきたところで完全に上杉軍が主導権を握るだろう。

長浜での大規模な戦闘では上杉謙信が勝利し織田軍は関ケ原付近まで退却すると思われる。

上杉軍は兵力数千ほど失うが、退却する信長は5万以下に兵力が半減し、一番の強みである1万丁もの鉄砲の大部分を失うことになる。

こうなると野戦では圧倒的に上杉謙信率いる軍隊の方が有利で、あとは織田軍がどこまで持ちこたえることができるかにかかってくる。

織田軍は関ケ原と安土で上杉軍を挟撃するような位置関係に持って行くが、上杉軍の兵力には対抗することが出ずに、謙信本来の戦い方である目の前の敵に全力で襲い掛かる野戦をまとものくらい織田軍の負けが決定的になると思う。

その後謙信は遊撃隊として米原に2万ほどの兵をとどめたまま、大垣、岐阜へと織田信長を追い込むことになるだろう。

大坂の石山本願寺や毛利の動きに備えて羽柴秀吉あたりが京都大阪方面にいる可能性が考えられる。もし信長の危機を知ったら援軍として一気に岐阜方面に動き出すだろう。謙信がその動きを察知したら、米原から長浜に駐屯させている2万ほどで秀吉の到来前に安土城の攻略に乗り出すだろう。

織田信長は岐阜城で最後を迎えることになる。謙信が岐阜城を包囲する頃には飛騨衆も南下して岐阜城攻めに加わることだろう。岐阜城は山城で一気に攻めようとしても落城しない。謙信は七尾城攻め同様に、岐阜城を包囲したまま、周辺の城を次々と落城させ、完全に岐阜城を孤立させる。

兵糧攻めに持ち込み信長の降伏を待つのみという方向にもっていくだろう。

謙信は信長の降伏を機に、美濃尾張侵攻を行う武田勢の進行を止めさせ、徳川家康に降伏を迫る。さらに、安土城も開城させ、大阪京都の織田軍も全面降伏して一連の軍事行動は上杉方の勝利で決着がつく。

美濃、尾張、近江一帯の仕置きを済ませたのち謙信は上洛を果たすことになるだろう。

まあ、だいたいこんなところが、想像できる範囲の上杉謙信が信長を倒した場合の上洛作戦だ。室町幕府が再興が謙信の望みだから東国を平定したらあとは足利将軍家に幕府としての実権を委ねることだろう。全てこと収まった暁には私利私欲のない謙信だけに静かに越後に引き返すだけだろう。

今回の米原―敦賀ー金沢―七尾の北陸本線ルートはまさに織田信長と対決するために謙信が取ったであろう上洛ルートだった。

Chain Reaction Cycles

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