美しい終わり方 散り際の美しさについて思う

プロスポーツ選手の”現役復活”について皆さんはどう思うだろうか?

一般的には例えば、”その歳でまた復活なんてすごい” などと賛美する声が目立つような気はする。だが、私ははっきり言って一言 ”醜い” と思えてならないのだ。

それは引き際に美しさと言うものがあるからだと思うのだ。

私が初めてプロスポーツ選手の引退に美しさを感じたのはミゲル・インデュラインが引退を表明したときだったように思う。

1996年ツールドフランス、前人未到の6連覇を目指して挑んだインデュライン。ツール直前の前哨戦であるドーフィネリべレでは山岳で圧倒的パワーを見せつけてライバルたちを全く寄せ付けなかった。誰もが今年もインデュラインが勝つと思っていた。ところが結果は山岳初日で遅れ総合11位の結果でツールを終えた。ピレネーステージでは彼の故郷バスクへとつながるコースも設定されたがマイヨジョーヌ姿は見せられなかった。それでも精いっぱい戦い終えたツールだった。約1か月後のプロ出場が初めて認められたアトランタオリンピックでは個人タイムトライアルで金メダルに輝き最後に強さを見せた。その後ヴェルタにも出場したが途中棄権に終わり、バネストとの契約期間満了を待って、1997年年明け早々に引退を表明したのだ。

まだツールドフランスに勝つ力は残っていると思う。ただもう十分にやり切った。” インデュラインは会見でそう言っていた。

私は当時、次のツールではインデュラインの勇姿が見られなくなるという喪失感を感じた。と同時に”十分にやり切った”と言って終わったインデュラインの終わり方にも感銘を受けた。そういう風にして終わりを迎えるものなのだと素直に感じた。結果として心に残ったのは美しい終わり方と言うものだった。

圧倒的にな強さを保持していてもいつかは終わりが来る。どの世界でも正々堂々と戦い尽くして潔く終わると言うのが一番美しいと思う。

私はそもそもツールドフランスのような過酷な競技を含む、自転車プロロードには現役復活はあり得ないと思っていた。一度引退してまた現役に戻れるほど甘い世界では到底ないと思っていた。そして、そういう世界だからこそ選手であったことにとりわけ誇りが持てるものだと思っていた。

しかし、それを覆した選手にランス・アームストロングがいた。彼は言うまでもなくドーピングや相手選手やチームの買収により7年連続ツールに勝ち、最後は全てを剥奪された男だ。

7連覇の後引退したが、まだ物足りなかったのだろう。現役復活してツール優勝を目指した。残ったものは同じチームメートでエース格のコンタドールとの確執だけっだったろう。そこに美しさなど微塵もなくただ醜さだけが残った。

散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ

細川ガラシャの辞世の句と言われている。とても美しい言葉だと素直に思う。

終わるときがあるからこそ美しいと言っている。咲き誇る桜の花は美しい、そして散るからこそ一層美しい。散ってしまったらそこで終わる。この美意識にやはり共感できる。

終わるべき時を知り、終わることは人として美しいと言っているのだ。インデュラインもそうだったように引き際を知っている選手は美しいのだと思う。

細川ガラシャの時代は今よりもはるかに死が身近にあった。引き際とは人として究極の死を意味した。プロスポーツ選手の引退は死程の切迫感はないとはいえ、それこそ命を懸けて選手生活に精進してきた選手にとっては同等の重みがあるのではないかと思う。それはまた有名なプロスポーツ選手に限ったことではないはずだ。名もなきプロ選手にだって言えることだ。もっと言えばプロに限ったことではない。たとえアマチュア選手と言えどもいろいろなものを犠牲にしてまで本気で取り組んできたものに区切りをつける時には相当の覚悟がいるはずだろう。

もし現役復活しようものなら、あの時の引退は一体なんだっとのと思ってしまうのだ。そんなに軽いものだったのだろうか?と。現役に未練があったのだろうか、もっと稼ぎたいのだろうか。

昭和最後の大横綱に千代の富士がいた。彼は引退会見で「体力の限界です。」と言い切って涙した。無論現役復活などあり得ない世界だが、そうして終わるところに美しさがあり現役時代の輝きが残るものだと思う。

およそ相撲道とか柔道とかいう○○道と付くスポーツには散り際の美しさと言う美意識が他のスポーツよりも残っているのかもしれない。

古くは長嶋茂雄選手が現役引退を表明したときに、”巨人軍は永遠に不滅です。”と言う名言と共に現役に別れを告げた。もし現役復活でもしようものならそこには美しさのかけらもなかったことだろう。

テニスの伊達公子選手やスケートの高橋大輔選手など現役復活を果たす人はいるが、どうしても美しさなどというものを感じられないのだ。貪欲さと言うものを感じてしまうのだ。何と言うか、とにかく勝つことに対する執着心や快感、金銭的な欲望、名誉欲と言ったものを見てしまうのだ。そこまで断じてしまう必要はないかもしれないが、少なくとも美しさはないのだ。

現役に復活した選手の終わり方と言うのは往々にして味気ないものではないだろうか。”やっぱりね、それはもう無理でしょう。とっくに全盛期は過ぎているのだから・・” 程度の反応が世間からあるくらいなのではないかと思う。無論そこには引き際の美しさなどと言うものはない。それどころか、咲き誇っていたはずの最初の輝かしい現役時代の栄光に影を落としてしまうものにさえなるのではないかと思う。

現役復帰と引退せずに現役にこだわり続けるのは全く違う。例えばサッカーの三浦知良選手は50歳を越えてもいまだに現役プロ選手だ。まだやれると思い、続ける意欲があればやれるまで続ける。50歳ともなれば並大抵のことではないと思うがそこに挑戦し続けることは称賛以外の何物でもない。やがて、体力に限界が来た時に来るべき時が来るのだろう。

先日横綱稀勢の里が二場所通算して一回の不戦勝を含め8連敗した後に、引退を表明した。こんなに負けるまで横綱を続けるなど潔さがないと言う世評もあった。相撲の世界であるが故、そのような批判があるのは当然だが、そのやり切ろうとする姿勢は前述の三浦知良選手と共通するものがあるはずだ。最後の最後まで自分の可能性に掛けてすごい重圧の中戦ったこと自体は素晴らしいことだと思う。とにかく限界まで取り組んで、インデュラインの発言にもあったように、十分にやり切ったと思い引き際を決めることに美しさはあるのだ。そこまでやれば、どんなスポーツであれ現役復活はまずありえないことなのだろうと思う。

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