”ローラン・フィニョン”
彼の全盛期を生で見たことはないのだが、私にとってはとても印象的な自転車ロード選手だ。
私がツールドフランスを知って初めてツールをテレビで見たのは1993年。その年のツールドフランスにゲータレードチームの一員としてフィニョンは出場していた。しかし、エースはジャンニ・ブーニョで明らかに選手としてのピークは過ぎていたようだった。そして、山岳ステージで脱落。古傷の膝の痛みが悪化してリタイヤを余儀なくされたのだ。
そしてこの1993年を最後に引退する。翌年のフジテレビのツールドフランス中継時に流れたのが下の一コマの動画だ。
とてもクールにまとめられていて今でも心に残っている。
ローランフィニョンは本当に偉大な選手だったのだ。当時の自転車選手としては珍しい大学卒と言う経歴を持っていた。1983年のベルナール・イノーの代役としてツールを走り23歳の若さでツールドフランス総合優勝を達成し、翌年2連覇を果たす。その後ジロでも総合優勝を飾る。
そして、1989年自身3度目のツール制覇に向けてマイヨージョーヌを着て最終ステージ、パリシャンゼイリゼに凱旋するタイムトライアルに臨んだ。ところが何と、総合2位のグレッグ・レモンに50秒差で敗れ大逆転を許し、僅か8秒差でマイヨジョーヌを奪われたのだ。三千数百キロ走った後の8秒差である。
ブルホーンバ―に前後輪ともディスクホイールで疾走するフィニョンに対し、レモンはDHバーを取り入れた新スタイルで逃げる。結果的にレモンは24.5kmのタイムトライアルを平均時速54.5kmという驚異的な速さで走り抜けて奇跡を起こしたのだ。DHバーを取り入れたタイムトライアル時代を決定づける出来事だったとも思うが、やはり全力を出し切った後の結果の残酷さには衝撃的だった。何よりも大観衆が見守るパリシャンゼリゼ通りで、最後の雌雄を決するタイムトライアルステージが設定された中での出来事だ。しかも、ここ数年フランスの期待を一身に集めていたのにツールでは全く振るわなかったフィニョンだ。ものすごい期待を集めていたはずなのだから、まさにパリ出身のフィニョンがパリで味わう地獄のような悪夢だったことだろう。地面に倒れ込むフィニョンと歓喜に沸くレモンの姿は本当に対照的だった。
ちなみに、この年のジロではフィニョンは数年間の低迷から復活する初優勝を遂げている。そして劇的なツール優勝を手にしたグレッグ・レモンも2年前の散弾銃の暴発事故で命の危険を彷徨よい、2年間競技生活を棒に振った後での復活劇だったのだ。
さらにもう一つ付け加えるのなら、前年ツールドフランス優勝者のペドロ・デルガドは何とプロローグに遅刻して2分40秒も失うと言う前代未聞の大失態を犯したのだ。にもかかわらず、レモン、フィニョンに次ぐ総合3位で締めくくったのだが、トップから3分34秒差の総合3位を考えれば、プロローグの遅れは余りに痛かったろう・・・いろいろな意味で印象的なツールドフランスだった。
私にとってはローラン・フィニョンがツールを走る生の姿は1993年が最初で最後だったのだが、彼の果敢にアタックをする積極的な走りはとても見ごたえがあった。まさに正々堂々と勝負をする潔さに惹きつけられた。
残念ながら2010年癌のため50歳の若さでこの世を去った。
眼鏡の奥の知性的な瞳、あの長い髪も今は昔・・・この一節がいつまでも心に残る・・
ありがとうローラン・フィニョン
Merci Beaucoup!